「御開山様三百三十三年忌 御堂ニテ御能御座候」と表記されるように、文禄3年(1594)333回忌時の記録の一つです。回忌が確実な記録にみられるのは、永禄4年(1561)の300回忌からですが、その時に作成された日記や古文書などは伝来していません。それに対して本記録は、333回忌当時に作成されたもので、現存最古の回忌史料です。
本記録が興味深いのは333回忌と、回忌=50年毎という規則性からはずれている点です。この前年、兄教如(きょうにょ)宗主(後、東本願寺創建)が隠居し、准如宗主が本願寺を継職しており、この回忌はその交替を門末に示すため、修されたものと考えられています。
内容は表題や最初の頁に「銀十五匁(もんめ) ふ(麩) 七百五十」とあるように、法会終了後に催される祝い能で関係者へ振る舞われる食事の食材代銀が記されています。
(タテ26.5×ヨコ20.2センチ 楮紙)
「御開山様四百年忌御法事」は、万治4年(寛文元年、1661)3月18日から28日にかけて、本願寺第13代 良如(りょうにょ) 宗主により、修された親鸞聖人400年忌の詳細な記録です。みてわかるように、鼠害により下部が破損しています。内容は18日から始まる回忌の記録ですが、「門跡様(良如宗主)」の御斎時の椀・折敷、あるいは着衣など、儀式の経緯が詳述されています。
この時代は徳川政権下で一定の社会的安定を保った時期でした。しかし法会厳修2ヶ月前の正月15日、京都大火で 御所(ごしょ)・公家(くげ)屋敷などが焼失。法会翌年5月、京都大地震で両堂の尊像を避難させる事態も生じました。安定的社会の中で繁栄する京都、それは災害が生じれば被害が甚大となることを意味していました。大都市京都の繁栄と危険の中で、本願寺は回忌を盛大に厳修していくことになるのでした。
(タテ26.4×ヨコ19.3センチ 楮紙)
新選組が本願寺へ借金を願い出た際の史料です。同月10日に北集会所に入営した新選組は、わずか11日後に500両という莫大な借金を申し入れてきました。ドラマなどでも、新選組が商人などに借金要求を繰り返す場面がありますが、それを彷彿とさせる事件です。
ここでは本願寺側が200両、交流のあった商人が300両を用意したと記されています。なお鳥羽伏見の戦いの開戦直前、新選組は本願寺門徒である豪商加島屋より400両を借金しています(大同生命株式会社所蔵)。ちなみに本願寺分・加島屋分とも踏み倒したようです。
(タテ24.2×ヨコ17.0cm)
新選組は二年余りの滞在を経て、同年6月15日に不動堂村(京都市下京区)へ移転します。これはその移転成功の大功労者富島武裕(とみじまたけひろ)への褒美を命じた史料です。新選組の駐屯直前、西本願寺側では、新選組に対して温順に対応しトラブルを避けることなどを通達し、さらに広如宗主は新選組の屯所北側の御成道を避けて、南側の北小路側からの出入を決定するなど、警戒を強めていました。
このような緊張する状態のもと、西本願寺にとって移転は莫大な費用を投じても、達成すべき悲願であったのです。広如宗主は富島頼母の功労に対し、西本願寺への献木を与えました。本山への献木を一個人の家臣に分け与えること自体宗主の悦びが表れているようです。
(タテ31.7×ヨコ21.5cm)